われらの狂気を生き延びる道――『マッドマックス 怒りのデスロード』

フロイトは『トーテムとタブー』で、息子たちがそれをうち倒して父の罪を償う、という構造が原始よりの人間が造る共同体の基本的なシステムだと言う。核によって荒廃し、水と油を奪いあう未来の世界が舞台のマッドマックス今作の構造も全く同じである。ただ違うのが、王から権力を奪うのが女たちであるということである。

母と子を徹底管理し奪う王から、自らの自由と生命の泉を取り戻す。「緑の地」もまた汚染し荒廃しフュリオサは乾いた砂漠にくずおれるが、彼女らは母と子を徹底管理し奪う王から、自分たちの自由と生命の泉を取り戻す。物語について言うことはそれだけである。

王イモータンをはじめとする狂気から自由であるには希望を持つしかない、とマックスは言う。ただ観終わったあと僕は気づく。彼らの狂気はなんと美しいことか。

歯にスプレーをぶっかけて迷わず死に飛び込む白塗りの男たち。太鼓隊に火を噴くギター。フュリオサの謀反からの戦闘(逃亡)シーンの数十分にはスクリーンの端から端まで一ミリの隙もなく狂気が敷き詰められていた。

観終わった僕の頭にあるのはあの戦いに自分も狂った男の一人として戦いに身を投じることである。太鼓をたたき、ギターを弾いて、槍を敵の車に投げたい。

残念ながら僕はマックスやフュリオサのように狂気から自由でいることはできない。これはあまりにアッパーな映画である。ガンキマりである。狂気に感染してしまった。

劇場でこの作品を観られたことに感謝する。